
はじめに
嘘をつくのが苦手――いえ、正確に言うと「嘘がつけない」。
私がアスペルガー(ASD、自閉スペクトラム症)の特性の改善を意識し始めたとき、まず痛感したのがこの点だった。
例えば友人関係でも職場でも、ちょっとしたお世辞すら言えない。
意見を「率直に」「思ったまま」伝えてしまう。
大抵の場合、関係が悪化していた。
ありがたいことに直接それが悪いのだと指摘されたこともある。
頑張ってお世辞を覚えて使おうとしたことも何度もある。
でも、身体が受け付けてくれないのだ。
頭では「些細な嘘くらい社会の常識かもしれない」と理解していても、無理やり思ってもいないことを口にしようとすると喉が、唇が引き攣るような感覚になる。
結果として、「バカ正直だね」と笑われたり、あるいは「柔軟性がない」と責められたりすることが続いた。
とはいえ、嘘をつかない姿勢が「信用できる」と好意的に受け取られるケースもあるから、決してすべてがデメリットなわけではない。
本記事では、私自身や、同じ障害を持つ父親のエピソードを交えながら、「嘘がつけない」という特性の裏側にある強い「事実へのこだわり」と、それが周囲とのコミュニケーションにどう影響するのかを掘り下げる。
さらに、白い嘘が苦手だからこそ見つけた言葉の工夫と、社会での活かし方について考察してみたい。
嘘をつけない自覚と「事実」に縛られる生きづらさ
子ども時代のエピソード
子どもの頃から、私は「冗談」や「皮肉」といったやりとりがよくわからなかった。
クラスメイトがふざけ半分で言ったことに対し、つい「嘘は言ってはいけない」と発言してしまい、周りから「空気を読めない」「うざい」と言われた経験は一度や二度ではない。
他の子どもが「嘘」で笑っているのが理解できない。
なぜなら、その冗談が「事実をねじ曲げている」ように感じられて、苛立ちや気持ち悪さが残ってしまうからだ。
そうなると黙ってはいられない。
自分は空気が読めないらしい、ということは余りにも言われるので自覚はした。
が、それの何が問題なのか、空気を読むとは何なのか、なぜ私の一言は余計なのか、興味すら持つことができなかった。
それについて考えることもしなかった。
今思えば仲良くもないただのクラスメイトのふざけた発言を耳にしただけで、会話に割り込んでマジレスするやばい奴だった。
仕事で直面した“事実の歪曲”
成長して社会に出ると、この傾向はさらに顕著になった。
特に困ったのは、仕事上で「嘘とまではいかなくとも、うまく隠してほしい」というシチュエーションに直面したときだ。
たとえば、前日の夜に作った商品を「今朝作ったことにすれば期限が1日伸びるから」と言って売るよう指示されたとき。
多くの同僚は「ああ、そういうものなんだな」と受け入れてこなしていたが、私はそのたびに激しいストレスを覚えていた。
「いや、でもこれは事実と違うじゃないか」
「お客さんに嘘をつくことにならないか」
こうした疑問がどうしても頭から離れず、どうしても耐えられずに反論してしまうのだ。
結局、あまりにも抵抗が強く、退職せざるを得なかった経験がある。
周囲からは「そこまで真面目にやらなくてもいいのに」と呆れられたが、私としては「事実を歪めたまま仕事を続けるほうがつらい」という思いが勝っていた。
父親のエピソード
この「嘘をつけない」性質は、十中八九私の父親から色濃く受け継がされたものだ。
父は私以上に特性が強く、聞かれてもいない余計なことまで自ら話してしまうことが多々ある。
たとえば、ちょっとした世間話で「最近どう?」と聞かれただけなのに、「実は会社で大失敗してしまってね。これこれこういうミスで……」と自分の立場を悪くする情報まで長々と詳細に語ってしまうのだ。
相手がげんなりしていても気付かずに永遠に語り続ける。
本人以外誰も望んでいない話だとは気付かずに。
周りは「そこまで言わなくてもいいのに」とやんわり伝えるが、父に言わせれば「話そうと思ったことを途中で止められるのがしんどいので話しきりたい」らしい。
父の言い分は分からないでもない。
頭の中でこういう流れで会話(といっても一人で演説しているだけだが)をしようと思うと、その通りにせずにはいられないのだ。
質問をされたとき、どこまで深い意味で質問されたのかが分からない。
だから全てをさらけ出してしまう。
質問によって自分の中に浮かんだ「事実」を隠し続けるくらいなら正直に言ったほうが気が楽だと感じる瞬間が多々ある。
だけど、だからといって「正直に生きよう!」と意識して頑張っているわけでもない。
むしろ「嘘をつけない」ことがデフォルトで、それ以外の選択肢が浮かばないという方が近い。
「噓がつけない」と「正直者」の違い
ここで大切なのは、「嘘をつけない」と「正直である」は似て非なるもの、という点だと思う。
前者は意志や判断に関係なく、自動的に「事実しか言えない」状態に陥りやすい。
一方、後者は状況を見て必要な本音を伝えることができる、ある種のコントロール力も含む。
私は明確に「正直であろう」と決めているわけではないので、相手を傷つけるかどうかの判断をスルーしてしまうこともある。
たとえば学生時代、友人が書いたイラストを見せてくれたとき、本音では「うーん、これは酷い」と思ってしまい、つい口に出してしまったことがある。
後から「あ、これは相手が傷つくやつだ」と気づいて焦る。
最近では「個性的だね」「刺さる人ぜったいいるよ」などと言い換えるスキルを身につけたけれど、当時はそんな気遣いの概念すらなかった。
こうした経験が重なると、本人目線「何もしていないのに何故か人から嫌われる」という経験が積み重なり、人付き合いに慎重になりがちだ。
実際、「人の心とかないの?」と直接言われたこともあって、とても驚いた。
その一方で、「嘘をつかない姿勢が信頼につながる」と言ってくれる人もいるから、そこに少し救われる思いもある。
私が「嘘をつけない」ことによる生きづらさは確かに大きいが、完全にマイナスだけではないのだ。
白い嘘とコミュニケーションの壁――言葉選びが変えた未来
「本音しか言えない」ジレンマ
私が最も苦戦したのは、「白い嘘」を求められる場面だった。
世の中には「相手を傷つけないため」「場を盛り上げるため」などの優しい嘘や社交辞令が存在する。
それができればスムーズに人間関係が回ると、頭では理解している。
けれど実際に、自分の口から“明らかな嘘”を出す瞬間に強烈な違和感と嫌悪感が湧いてくる。
例えば友人と連絡が取れなかったとき、本心でめちゃくちゃ気にしていたのに、「ぜんぜん気にしてないよ、大丈夫」などとフォローするのは、まるで自分が自分でなくなるような居心地の悪さがあるのだ。
感情に寄り添って欲しいのではなく、理由が欲しい。
事実を知ることで安心できる。
そういう思考回路に基づいて、「なんで連絡くれなかったの?」と聞いてしまう。
そうすると相手は責められているように感じて、「急用が入ったんだもん仕方ないでしょ」と怒ってくる。
そういう細かい言葉遣いのせいで嫌われるのだと気付くのに10年近くかかった。
発見した「言い換えのワザ」
そこから試行錯誤の末に私が見つけた対処法が、「事実を隠すのではなく、別の角度から伝える」というやり方だ。
連絡がとれなかった例であれば、「連絡が取れなくてめっちゃ心配したんだよ~!何があったの!?」と言い換える。
事実ベースではなく、感情ベースで伝える。
私はこれを「言い換えのワザ」と呼んでいて、最初は言い換え辞典を読んだり、人の会話を盗み聞き(!)してうまい表現を学んだりして、地道に身につけていった。
この努力を始めるまでは、自分の発言で相手が自分を嫌う理由が本当にわからなかった。
「本当のことしか言ってないのに」とさえ思っていた部分もある。
けれど、コミュニケーションは事実だけで成り立つものではない。
相手の気持ちや自尊心、言葉に含まれるニュアンス……そういった目に見えない要素を重視しないと、知らぬ間に相手を深く傷つけてしまうことがある。
普通の人々は当たり前にそういうことを知っていて、普段から気を付けていたのだと数年がかりで理解した。
相手にばかり努力をさせて、自分は一切努力せずに思ったことを好きなように言い放つ。
嫌われる訳である。
そうならないために、「言い換えのワザ」を訓練する必要があったのだ。
父との対比と自分の選択
対して父親は、この「言い換えのワザ」がほとんどできない。
良い意味で“ブレない”性格ではあるが、相手からするととにかく言葉がストレートすぎる。
たとえば「その服似合ってなくない?」など、本人としては疑問形で聞いているだけでも、言われた側は「責められている」と感じてしまうだろう。
私が父に「もう少し言葉を和らげてみたら?」と言っても、「なんで? 事実を言っているだけだよ」と返されて終わり。
「何もしていないのに何故か人から嫌われる」状況を私は改善しようとしたが、父は「俺のやり方で残った奴とだけ関われば別に良い」というスタンスを貫いているのだ。
結果として衝突や誤解が増え、周りが疲弊してしまうことが多いように見える。
しかし、私が父と違うルートを選んだのは、よくある人間同士の「普通」に楽しく会話する光景に強い憧れを抱いていたからだ。
実は何度も友人関係のトラブルを経験し、「このままだとどこへ行っても同じ壁にぶつかる」と痛感した。
だから、少しずつでも「言い換え」のレパートリーを増やす努力をしてきた。
今では「優しくて誠実な人」と言われることも増え、本当の意味で“正直”に生きられている気がする。
お世辞だとしても嬉しい。
何より、この「嘘をつけない」性質を活かせる場面もあるという事実が大きな支えだ。
仕事でも「あなたのそういうところが信頼に値する」と言われたことがあり、少しずつ自分の居場所を作れるようになった。
社会のすべてが「白い嘘」を歓迎するわけではなく、むしろ真実を求めている場面も確実に存在する。
その点を知ったとき、私の生きづらさはほんの少しだけ軽くなった気がする。
まとめ
「嘘をつけない」というアスペルガー特有の性質は、ともすればトラブルや生きづらさの原因になる。
けれど、そこには「事実を大切にしたい」「自分を偽りたくない」という純粋な思いが隠れているのも事実だ。
私自身、言い換えの工夫や周囲への相談を通じて、少しずつバカ正直さを“誠実さ”へ変換しながら生きやすい環境を作ってきた。
もし身近に「嘘をつけない人」がいるなら、頭ごなしに「柔軟になれ」と押しつけるのではなく、その背景にある価値観を理解してあげてほしい。
そして当事者には、言葉選びを学ぶことで世界が広がる可能性がある、と伝えたい。
嘘がつけないことで得られる信頼もある――その事実を支えに、私たちは自分なりの正直さとともに、一歩ずつ前に進んでいけるはずだ。