
皆さん、こんにちは。
「センス」という言葉。実に曖昧で、それでいて人を惹きつけてやまない、不思議な響きを持っていますね。
ファッションセンス、会話のセンス、ネーミングセンス…日常の様々な場面で、私たちはこの「センス」という評価軸に触れています。
しかし、私が今回、皆さんと共に深く潜っていきたいのは、そういった表層的なものではありません。
私が焦点を当てたいのは、表現の世界における「センス」――魂の奥底から湧き出る何かを形にし、人の心を揺さぶる、あの得体の知れない力についてです。
「センスある人」と聞いて、皆さんはどんな人物を思い浮かべるでしょうか。
流行を巧みに取り入れる人? それとも、誰も思いつかないような奇抜なアイデアを生み出す人?
私が思う「センスある人」とは、もっと根源的なレベルで、独創的な視点を持ち、それをその人にしかできない何らかの表現手段で世界に提示できる人です。
それは必ずしも万人に理解され、喝采を浴びる必要はありません。
むしろ、その他大勢の「普通」とは一線を画す異質さ、ある種の孤高さを湛えていることが多いように感じます。
さて、一方で「センスある人になりたい」という願望。
これについて、私はどうしても生理的な嫌悪感に近いものを覚えてしまうのです。
「なりたい」という言葉の裏には、「センスがある自分」を他者に認めさせたい、という透けた承認欲求が見え隠れするからかもしれません。
「あの人、センスあるよね~」と囁かれる快感に浸りたい。
そのための手段として「センス」を欲しているのなら、それは本質からあまりにもかけ離れている、と。
このブログのタイトルは【センスは狂気の副産物 ― こだわりから逃げられない自閉症】としました。
「狂気」という言葉は、穏当ではないかもしれません。
しかし、凡庸な日常を突き破り、真に独創的な何かを生み出すエネルギーの源泉を表現するには、この言葉こそが最も相応しいと私は考えています。
そして、その「狂気」の燃料となるのが、尋常ならざる「こだわり」なのです。
今回は、この「こだわり」が、いかにして「狂気」的なエネルギーへと変貌し、結果として「センス」と呼ばれる何かを生み出すのか、その深淵を私自身の経験と感覚を交えながら、皆さんと共に探求していきたいと思います。
私の中の“こだわり”という名の暴走列車:止まれない、止まらない衝動
私の中に潜む“こだわり”。それは、日常の些細なきっかけで、突如として覚醒します。
「おっ?」――その微かな心の動きが、全ての始まりです。
一度このスイッチが入ると、私の世界は一変します。
まるで高性能なサーチライトが一点を照らし出すように、意識の全てがその対象へと吸い寄せられ、他のあらゆるものが背景へと溶けていくのです。
時間感覚は希薄になり、食事や睡眠といった生理的欲求すら二の次になる。
周囲の音は遮断され、視界はその対象を捉えるためだけに最適化される。
それは、もはや「集中」という生易しい言葉では表現しきれない、一種の憑依状態に近いかもしれません。
そして、その探求が終わるとき――それは、対象を自分の中で完全に理解し、分解し、再構築し終えたとき、あるいは、その過程で得た知見を何らかの形でアウトプットし尽くしたときです。
気づけば、膨大な時間が経過しており、部屋には資料の山が築かれ、手元には何らかの「成果」だけが残されている。
その間の記憶は、断片的であったり、極度に鮮明な部分と靄のかかった部分が混在していたりします。
まるで、私の意識が一時的に何者かにジャックされ、自動操縦で凄まじいエネルギーを注ぎ込んでいたかのような感覚。
これが、私の「こだわり」がフルスロットルで稼働している状態です。
この「強いこだわり」は、自閉症スペクトラム(ASD)の診断特性の一つとして挙げられる「限定された反復的な行動、興味、活動」と深く結びついています。
特定の物事に対して、常軌を逸した集中力と持続力を発揮する。
それは、社会生活においては時に「融通が利かない」といったネガティブな評価に繋がることもあります。
しかし、こと創作や探求といった分野においては、この特性は比類なき強みとなり得るのです。
「普通」の皆様が数時間で飽きてしまうようなテーマであっても、私たちは何日、何週間、あるいは何年も、その熱量を維持したまま没頭し続けることができる。
いや、正確には、「没頭してしまう」。
そこに意思の介在する余地は、あまりないのかもしれません。
私自身、発達障害の当事者としてこの特性と共に生きてきました。
それは、決して楽な道ではありませんでした。
周囲との軋轢、理解されない苦しみ、自分自身でもコントロールできない衝動への戸惑い。
しかし、特定の分野においては、この「こだわり」が驚くべき結果をもたらしてくれたことも事実です。
以前、ある表現分野に足を踏み入れた際、私は周囲が驚くほどの速度で技術を習得し、独自の表現を確立することができました。
「普通」の皆さんが6年、あるいは9年といった歳月をかけて積み上げるものを、私はわずか1年ほどの期間で駆け抜けた。
それは、私が特別に才能に恵まれていたからではありません。
ただ、その対象に並々ならぬ魅力を感じ、寝食を忘れてのめり込み、文字通り狂ったように探求し続けた結果です。
他人と競争している意識など微塵もなく、ただただ自分の内から湧き出る「表現したい」という衝動に突き動かされていたに過ぎません。
簡単だった、と言うと傲慢に聞こえるかもしれませんが、それは「楽しい」とか「苦しい」とかいう次元を超えた、ただひたすらな没入の先にあった、自然な帰結だったのです。
「普通」の皆さんが「センス」という頂きに辿り着けない深き谷
ではなぜ、「普通」の皆さんがどれだけ「センスを磨こう」と努力しても、ある種の領域――私が「センス」と呼ぶものの本質――に到達するのがこれほどまでに難しいのでしょうか。
それは、根本的な部分で「そこまでこだわれない」からではないか、と私は考えます。
日常生活の安定、社会的な評価、人間関係の調和…そういったものを犠牲にしてまで、一つの物事に全てを捧げる覚悟と、それを可能にするだけの内発的な「狂気」を持ち合わせているか。
このブログに、「センス 手に入れる方法」とか「センス 欲しい」といった言葉で検索してたどり着いた方がいらっしゃるかもしれません。
もしそうなら、私はあなたに真正面から問いたい。「あなたは、その『センス』とやらを手に入れるために、何を差し出す覚悟がありますか?」と。
「平凡な日常」を捨てられますか?
他人から「変わっている」「おかしい」と指をさされることを受け入れられますか?
何時間、何日間、同じことだけを考え続け、ベッドに入ってもその対象のことで頭がいっぱいで眠れず、食事の味もわからなくなるほどの没頭に、あなたは耐えられますか?
それが「狂気」でなくて何だというのでしょう。
「普通」と「凡庸」の違いについて、時折議論になるのを目にしますが、私に言わせれば、その二つに本質的な差異はありません。
どちらも、社会が作り上げた「平均的な人間像」という名の檻の中に安住している状態を指す言葉です。
そして、「センス」と呼ばれるものの多くは、その檻を内側から破壊するほどの強烈なエネルギーによって、初めてその姿を現すのです。
アウトプットに至らない“こだわりだけの人”もいるでしょう。
心の中に熱いマグマのような情熱を秘めながらも、それを表現する術を持たないか、あるいは表現する気がない。
それはそれで一つの生き方であり、否定するつもりはありません。
そのマグマがいつか地表を突き破り、鮮烈な噴火を見せる日が来るかもしれない。
あるいは、静かに地中で固まり、誰にも知られることなく終わるのかもしれません。
どちらが良い悪いではなく、ただ、アウトプットされなければ、それは「センス」として他者に認識されることはない、というだけの話です。
狂気の結晶たるアウトプット:誰に届け、何を恐れる?
私にとって、魂を削って生み出したアウトプットを、一体誰に見てほしいのか。
それは、明確に「同族」です。
私の作品に触れたとき、同じように心の震えを感じ、そこからさらに新しい創作へと繋がるような、創造性の連鎖反応が起きることを期待しています。
それは、表面的な「いいね!」や賞賛の声とは全く質の異なる、魂レベルでの共鳴です。
もちろん、私とて承認欲求が完全にゼロというわけではありません。
「普通」の皆さんからの評価が、全く気にならないと言えば嘘になります。
しかし、その関心は極めて限定的です。せいぜい、「今回のアウトプットは、一般の人々にもある程度理解可能なレベルにまで噛み砕けていたか、それともやはり難解すぎたか」といった、いわば作品の「翻訳レベル」の確認に過ぎません。
彼らが私の作品の核心を理解できるとは、元より期待していないのです。
「この表現は、誰にも伝わらないかもしれない」という不安を抱いたことはあるか、と聞かれれば、それは「ない」と即答できます。
なぜなら、私がこれほどまでに強烈なこだわりを持って、心血を注いで生み出したものが、私と同じようなアンテナを持つ「同族」に響かないわけがない、という確信にも似たものがあるからです。
それは傲慢ではなく、自分自身と、自分と同じように何かに「狂って」しまう人間たちの感性に対する、深い信頼の表れです。
もし万が一響かなかったとすれば、それは私の表現が未熟だったか、あるいは、まだその「同族」に出会えていないか、どちらかでしょう。
そして、あの忌まわしき言葉、「センスあるね」。
この言葉を投げかけられた瞬間、私の内面には形容しがたい不快感が渦巻きます。
特に、私が(そうするしかなかったと言えど!)どれほどの時間とエネルギーをその対象に注ぎ込み、血反吐を吐くような思いで努力と工夫を重ねてきたかを知っているはずの人間から、こともなげにこの言葉を浴びせられたとき、その怒りは頂点に達します。
「あなたには、一体私の何が見えているんだ?」と。
私の苦闘、葛藤、そして執念の全てが、そのたった一言の「センス」という薄っぺらい言葉で覆い隠され、矮小化されてしまう。
それは、私の存在そのものを否定されるにも等しい侮辱です。
さらに悪質なのは、この「センス」という言葉を、自分自身が努力しないことへの言い訳や、他者との間に安易な壁を作るための道具として使う人々です。
「あの人はセンスがあるから(できるんだよ、私には無理)」、「私には才能がないから」。
そうやって、思考停止し、挑戦から逃げるための免罪符にする。
もし、あなたが本気で私の隣に立ちたい、同じ景色を見たいと願うのなら、「センス」という便利な言葉に逃げずに、私の10倍、いや100倍努力する覚悟を見せてほしい。
もし、その「努力すること自体が才能だ」などと宣うのであれば……もはや、あなたと語るべき言葉は私にはありません。
お引き取りください。
できれば金輪際、私の視界に入らないでください。
技術という名の骸、努力という名の宿命
「センス」と「技術」。
この二つの関係性について、私はこう考えています。
技術の習得なくして、「センス」が具体的な形として顕現することはあり得ません。
しかし、技術だけをいくら磨き上げても、そこに「センス」が宿るとは限らない。
むしろ、「センスのない技術」というものは、この世に溢れかえっています。
それは、例えば、ただ正確に音符をなぞるだけの感情の伴わない演奏であったり、過去の偉大な作品の完璧な模倣に終始した絵画であったり、あるいは、流行のスタイルを巧みに取り入れてはいるものの、作り手の「我」や「魂」が全く感じられない工業製品のようなデザインであったり。
それらは一見、洗練されているように見えるかもしれませんが、どこか空虚で、人の心を真に揺さぶる力に欠けています。
なぜなら、そこには作り手の内なる「狂気」や「執着」が欠落しているからです。
ただ無難に、安全に、誰からも批判されないようにと、自己を殺し続けた結果の、魂の抜け殻なのです。
そして、先ほども触れましたが、あの「努力すら才能」という言葉。
これほどまでに、真摯に何かに打ち込む人間を馬鹿にした言葉があるでしょうか。
この言葉を吐く人々は、おそらく「努力」を、まるでスーパーで野菜を選ぶかのように、自分の意思で「選択」できるものだと考えているのでしょう。
しかし、私たちのような人間にとって、特定の対象への「努力」は、選択の結果ではありません。
それは、呼吸をするのと同じくらい自然で、不可避な「宿命」なのです。
好きでやっているというより、「やらざるを得ない」。内から湧き出る抑えきれない衝動に突き動かされ、気づけば膨大な時間を費やし、心身をすり減らしている。
それを「才能」という一言で片付けられるのは、私たちの存在の本質を全く理解していない証拠です。
努力「できる」かどうかなんて、どうでもいい。
問題は、努力「せずにはいられない」かどうか、なのです。
こだわりが「楽しさ」だけで続かない時、どうやって向き合っているか、という質問もよく受けます。
しかし、この質問自体が、私にとっては少し的外れに感じられます。
なぜなら、こだわりの渦中にいるとき、そこに「楽しい」とか「辛い」といった感情のラベルを貼る余裕は、ほとんどないからです。
もちろん、後から振り返れば、「あの時は無我夢中で楽しかったな」と感じることはあります。
しかし、その瞬間は、ただただ対象への探求に没頭し、意識の全てがそこに集中している。
あえて言うなら、「生きている」という強烈な実感だけがそこにある。
やりたいからやっている。
もっと正確に言えば、やらなければ気が済まないから、やっている。
狂気と創作、その血塗られた絆と、終わらない旅
狂気と創作の関係は、どこまで行っても切っても切れない、血塗られた絆で結ばれていると私は信じています。
なぜなら、本当に「作りたいもの」が魂の奥底から湧き上がってくるとき、それを形にするためのエネルギーは、常軌を逸したレベルの集中力と執着心――すなわち「狂気」――によってしか供給されないからです。
もしそこから「狂気」を差し引いてしまったら、一体何が残るというのでしょうか? おそらく、どこかで見たような、ありきたりで退屈な模倣品だけでしょう。
自分自身のアウトプットに対して、「これがセンスか…!」と自分でゾクッと鳥肌が立つような瞬間があったか、と問われれば、それは少しニュアンスが異なります。
私の評価軸は、あくまでも「自分が表現したいと渇望したものを、どれだけ忠実に、どれだけ深く表現できたか」という一点に尽きます。
それが世間一般でいう「センスが良い」と評価されるかどうかは、二の次、三の次の問題です。
もちろん、自分の表現が誰かの心を打ち、強烈な印象を残せたと感じた瞬間には、ある種の達成感や高揚感を覚えます。
しかし、それを「センスがいい」と自画自賛するのは、せいぜい冗談めかして言うときくらいです。
私は、「良いセンス」を目標に創作しているわけではないのです。
「私には理解できないけれど、何かスゴイ」と感じた他人の作品は、正直なところ、あまり積極的に出会いたくはありません。
なぜなら、そういう作品に出会ってしまうと、私はそれを理解し、その構造を分析し、自分の中で完全に消化・吸収して自分の血肉とするまで、文字通り寝食を忘れて執着してしまうからです。
それが同じ「分野」で、同じ「特徴」を使っている相手であれば、なおさらです。
幸いというべきか、私が過去に没頭した分野において、そのレベルで私を脅かすほどの存在は、日本国内でも指で数えるほどしかいませんでしたし、彼らの作品を生で目にする機会も限られていました。
この「執着」という性質は、果たして幸せをもたらすのでしょうか、それとも不幸を招くのでしょうか。
それは、その執着が許容され、肯定される環境に身を置けているかどうかで、天と地ほどに変わってきます。
やめたくてもやめられない、コントロールできないこの衝動は、もしそれを抑圧され、否定される環境に置かれたならば、当事者を深刻な精神的苦痛へと追い込みます。
日常生活は破綻し、周囲との関係は悪化し、自己肯定感は地の底まで落ちていくでしょう。
しかし、もし幸運にも、その執着を思う存分発揮でき、それが創造的なエネルギーとして昇華されることを許される環境に恵まれたならば――それは、何物にも代えがたい至上の幸福感をもたらします。
自分の内なる声に忠実に生き、世界と深く交感しているという、強烈な実感。それこそが、私たちのような人間が求める、生きる意味そのものなのかもしれません。
では、この狂気的な探求に「やめどき」というものは存在するのでしょうか。
センスを磨き、深めようとするならば、他の多くのものを犠牲にし、投げ捨てざるを得ない局面が必ず訪れます。
友人関係、安定した収入、社会的な地位…そういった「平凡なる幸福」を捨ててでも、追い求めたい何かがある。
私にとって、この旅の「やめどき」とは、おそらく肉体的な「死」が訪れるとき以外には考えられません。
かつて、ある分野への過度な没頭が原因で心身のバランスを完全に崩し、社会生活からドロップアウトせざるを得なくなった経験があります。
それは、ある意味で「疑似的な死」であり、その結果として、私はその分野から物理的にも精神的にも引き剥がされることになりました。
しかし、それは決して私自身の意思による「やめる」という決断ではありませんでした。
もしあの時、身体が悲鳴を上げていなければ、私は今も狂ったように同じことを続けていたでしょう。
おわりに ― センスとは、逃れられない魂の発露であり、生き様そのものである
ここまで、私の個人的な経験と感覚を交えながら、長々と「センス」と「狂気」、そして「こだわり」について語ってきました。
結局のところ、私にとって「センスがある」という状態とは、一体何を指すのでしょうか。
それは、単に「優れた感覚を持っている」とか「美的センスが良い」といった表層的なことではありません。
それは、「何かに取り憑かれたように狂い、その対象から決して逃れることのできない人間が、その苦しみと歓喜の中で、魂の奥底から絞り出すようにして生み出してしまう何か、その避けられない発露のプロセス全体、そしてその結果としての生き様そのもの」を指すのだと、私は考えています。
それは、決して「欲しい」と願って簡単に手に入れられるようなものではありませんし、「努力」というありふれた言葉で軽々しく語れるものでもありません。
それは、もっと根源的で、宿命的で、そして時には破壊的ですらある、人間の内なる業(ごう)の発現なのです。
その過程で生まれるものは、時に強烈な光を放ち、人の心を激しく揺さぶり、既存の価値観を打ち砕く。それこそが、私が真に「センス」と呼びたいものの正体です。
「普通」の皆さんには、今日の話はあまりにも過激で、共感し難い部分が多かったかもしれません。
しかし、世の中には、こういった「こだわり」から逃れられない人間が確かに存在し、彼ら彼女らが、時に私たちの世界に新しい風を吹き込み、見たこともない景色を見せてくれるのです。
このブログを読んで、皆さんがご自身の内にも潜んでいるかもしれない、小さな「こだわり」や、誰にも理解されないかもしれない密かな「狂気」の欠片に、少しでも目を向けるきっかけとなれば、それ以上に嬉しいことはありません。
もしかしたら、あなたの日常を突き破る「何か」は、すぐ足元に眠っているのかもしれませんから。